広島の酒

西条が「酒都」と呼ばれる理由のひとつは、精米機にあった

サタケ広島本社の展示室。木製の精米機の復元模型と、手前の台に置かれた新旧2枚の砥石、奥に真吟の解説パネル、右手前に山田錦の拡大模型

10月の第2週末、JR西条駅の改札から人の列が延びます。酒まつりです。今年は10日と11日で、西条中央公園や酒蔵通りなど、駅のまわり一帯が会場になりました。僕も10日の土曜に行ってきたのですが、その前に寄った場所の話を先に書きます。

酒まつりの午前中、同じ西条にある精米機メーカー、サタケの本社見学ツアーに参加しました。前回の記事では米の形を残す新しい精米の話を書きましたが、今回はその隣にあった、木でできた古い機械の話です。西条は灘・伏見と並ぶ日本三大酒どころと言われ、東広島市や市の観光協会のサイトでは「酒都西条」の呼び名も使われています。そう呼ばれるようになったきっかけのひとつに、この機械が関わっている。案内ではそう説明されました。

足踏みの時代、西条には水車がなかった

精米プラントを見たあとの日本酒のコーナーで、案内の社員が西条の精米の歴史から話を始めました。サタケの技術情報誌「TASTY」34号に同じ流れがまとまっているので、そちらも見ながら整理します。

江戸時代の精米は足踏みでした。杵を足で踏んで臼の米を搗く、あの作業です。灘では明和期、1760年代から70年代に水車精米へ切り替わり、六甲の急流で水車を高速で回して、白く磨いた米を大量に用意できるようになりました。灘の酒が全国に出ていった背景には、この水車があります。

一方の広島には、水車を回せる高低差の大きな川がありませんでした。広島県の資料「ひろしまラボ」にそう書かれていて、案内の社員も、西条の盆地では水車が使えず人の力で搗くしかなかった、と説明していました。ここが出発点です。

15歳の約束から17年。1896年、日本初の動力精米機

展示室の左手にあった木製の機械は、創業者の佐竹利市が作った日本初の動力式精米機の復元模型です。車輪のような木のはずみ車が並び、案内の社員が手で回してみせてくれました。この回す力を人からエンジンに変えたのが、1896(明治29)年です。なお、模型の手前に置かれた2枚の砥石は、今の機械に使う新旧の砥石で、前回書いたものです。サタケの沿革には「初代社長佐竹利市が日本で最初に動力精米機を考案し、生産販売を開始」とあります。

「TASTY」34号によると、利市は1863年に今の西条西本町の農家に生まれました。15歳のとき、足踏み精米をしながら「単調で無駄な作業だ」と思い、精米機の構想を地元の名士だった木村和平に打ち明けます。和平は1873年に賀茂鶴の前身である木村酒造場を興した人で、「第一号はわしが買ってやる」と約束した。ただ、利市はため池の治水や鉄道工事の監督に引っ張り出され、開発に着手できたのは1895年。約束から17年がたっていました。

1896年の初号機に利市自身は満足せず、納めた3台を回収して改良し、4連の臼を動力で動かす「4連座式臼型精穀機」に仕上げたそうです。案内の説明では、人力の約40倍の速さで精米できたとのことでした。農家の少年の思いつきに、酒蔵の主人が「買う」と約束した。西条の精米機は、そこから生まれています。

1908年、砥石で削る精米機が吟醸酒の扉を開けた

ただ、動力化だけでは終わりません。「ひろしまラボ」によると、第1号は米をこすり合わせてぬかを取る仕組みで、食用には十分でも、酒造り用にはもっと白い米が要りました。木村和平からの注文もあって、酒造用の改良を重ねます。

1896年から12年後の1908(明治41)年、利市は砥石で米を削る研削式の精米機を完成させます。沿革にはこの機械が「吟醸酒を誕生させる原動力となった」とあります。広島県の資料「ひろしまラボ」も、この精米機で精米歩合60%が実現し、吟醸酒の誕生に大きく寄与したと説明しています。展示室のパネルにも「砥石を使った研削式精米機は1908年に開発され、雑味の原因となるタンパク質を極限まで削ることが可能になり、吟醸酒の誕生につながりました」と書かれていました。

精米歩合60%という数字は、今の国税庁の表示基準で吟醸酒の条件になっている数字そのものです。「TASTY」34号によると、水車精米で精米歩合70%が普通だった時代に、1930年のサタケの竪型研削式精米機は40%まで削れたそうです。精米歩合の記事で、数字が示すのは削って残した量だけだと書きましたが、その数字を下げられる機械がなければ、吟醸酒という分類が生まれるのはずっと遅れたはずです。言い方を変えると、ラベルの「吟醸」の字は西条の機械が作った字でもあります。

その頃、広島の酒はすでに品評会で結果を出し始めていました。広島県の資料によると、1907(明治40)年に東京で開かれた第1回全国清酒品評会で、広島の酒が優等賞の1等と2等を独占します。研削式の精米機ができたのはその翌年で、「TASTY」34号は、この精米機で造った賀茂鶴の酒が1909(明治42)年の第2回で優等3位に入ったと記しています。

精米機と西条の酒の年表。足踏み精米、灘の水車精米、1896年の動力精米機、1908年の研削式精米機、1930年の精米歩合40%、1995年の酒類総合研究所の移転、2018年の真吟の順に並ぶ

水と米の話は、機械の話とセットで聞く

西条の酒の話をするとき、ふつう先に出るのは三浦仙三郎の軟水醸造法です。安芸津の酒造家だった仙三郎は、軟水では灘のやり方が合わないと気づき、1897年に軟水向けの造り方を確立して翌年「改醸法実践録」にまとめました。広島の酒の父と呼ばれる人です。

面白いのは、「TASTY」34号がこの3人、木村和平・三浦仙三郎・佐竹利市を「吟醸酒を育てた広島の創始者3人」と並べて書いていることです。和平が精米機の開発を後押しし、仙三郎が軟水に合う造り方を完成させ、利市が高度な精米を実現した。仙三郎は講演に出かける途中で西条の木村酒造場に立ち寄って情報交換をし、利市は作った精米機を大八車に乗せて、水車を持たない三津の三浦酒造へ運んだと言われています。のちに山陽本線になる三原と広島の間の鉄道工事を監督していたのが利市だった、というのも、この地域らしい話です。

もうひとつ、年表の端に足しておきたいのが研究所です。1904年に東京の滝野川にできた国の醸造試験所は、1995年に東広島市へ移転しました。今の酒類総合研究所で、所在地は東広島市鏡山です。毎年の全国新酒鑑評会はこの研究所と日本酒造組合中央会の共催で、「TASTY」34号はこの移転を、3人のゆかりの地に研究所が来た、と書いています。

サタケ本社の入口に立つ二代社長・佐竹利彦の胸像。台座に1910年から1998年の銘板

本社の入口には、二代社長の佐竹利彦の胸像がありました。沿革によると、1940年に学界初の体系的な精穀理論を発表した人です。精米機を作った会社が、二代目社長の代で精米の理論を書いた。酒どころという呼び名の裏には、水と米と、二代にわたる機械の積み重ねがあります。

次に西条の酒を1杯もらうときは、ラベルの「吟醸」の字の向こうに、15歳の約束と砥石の精米機があることを思い出してみてください。酒まつりの記事で8枚のチケットの使い方を書きましたが、来年の8枚のうち1枚は、西条の蔵の吟醸に使うのをおすすめします。その数字の由来が、この町にあります。


この記事を書いた人

藤本裕介

広島在住。映像の仕事のかたわら日本酒にどハマりし、いつか自分の酒を仕込みたくて、蔵を訪ね歩いています。飲み手として、半歩先の楽しみ方を書いています。

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